本当に長かった厄年。
そして、大変だった三年間と一年間。
能登半島に来て、この春で五年目になる。
早いものだ。
いろんな事もあり、大変な状況にはかわらないが、それでもここまでやれて来た。
一心にまっすぐに歩き続けてきた。
岡山では様々な事があったが、仕事としてはある意味完結させた。
まだやることはあったが、こうして見るとこの能登半島に来ても出来るである。
昔は時代にこだわり、その場所その何かをするためには、あるべき場所でしか出来ないとなっていた。
しかし、それはそれでどうにもならないことではならなくなった。
たぶん、こうして時代により作る基本も基盤も変わるのだろうか。
私は前に歩くことで、いろんなことも勉強してきた。
無くなったものもある。
しかし、こうして来てみると強くなったと思う。
それは、一人でも信じてくれる人がいると言うことがあるからだろう。
作ることだけでは、作家として生きるのは難しい時代になった。
そして他の方法論さえも、埋め尽くされることとなった。
真面目にするべきことをしていたからこそ、生きるために何かが出来るようになった。
だから、正当な時代であり、眼の感覚やバランスが無ければ難しい。
そう、見た目ではなく中身を見きれないといけない時代になった。
私は、アート引越センター、写真撮影の機材運び、交通検査員、土方、荷物配送、うどんや、焼き鳥の板場に焼場、広告関係、工場作業、郵便配達、IT修理、窯元工場長、会社役員、選挙、先生、起業再生、創造開発プロジェクトチーム、デザイン、広報、店内改装、洋服販売、家具配送など、ひた向きに作ることではなく、生きていく中にモノづくりが出来るように小学生から働き続けてきた。
小さいころから家は、お金があったが私は貧乏だったので、働く事を余儀なくされた。
妹は私立中学、高校とエレベーター。
私は高校も公立が落ちれば土方の宣告。
でも、不思議と3倍あった競争率の中新設校に合格。
あの時に土方になる一歩手前だったことが、今までで最大に乗り越えるモノの中で大変だった。
気が付くと両親も兄弟m居なくなった。
御世話になった祖父母は、他界してしまった。
今は何も無くなったと思うだろうが、実はそうではなかった。
昔は、御寺に行ってよく拝んだものだ。
般若心経もすらすらと読経出来るようになったし。
確かに能登半島で土に還ると言うことが、ある意味必要な目的では無くなった。
今は、土を造ることがそれなのかも知れない。
下世話な時代になり、あることないこと、見ても無い事聞いても無い事を、口ぐちに吹聴し書き叩く、異系なこととなり、まさに実力の世界であり無きものは、寄り集まるしかない時代になった。
ナンセンスと気が付かないのは、本当に滑稽なものだ。
おのおのが自らの雄弁によって築いた大きな虚像で塗り固め、唯我独尊といえるべく歩んでいる人が多い。
戦後から高度経済成長を過ぎ、あっという間にカタチを変え、どうしょうもない歩く日々を作り上げたのだろう。
努力しなくても、雛壇に乗りたい人が多くなった。
私は必ずやりたいことがある。
でも、慌てないと決めたのだ。
理由は簡単。
きっとそれが一つづつ、花開くことを願って。
中川幸夫先生と約束をしたからこそ、誰が何と言おうと私は変わらない。
あの先生ぐらい、苦しんで努力して勉強して実践してやり続け来た人は、私は知り合って来た中ではいないからだ。
備前のぐい飲みに、能登の徳利で酒を注いだ時に、雪の足音が聞こえてきた。
それを肴に思い巡らし回想に浸れるのも、四十二を過ぎたからだろう。
雪見障子が、なぜか眩かった。
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