こうして、降り立ってみると自然の造形が奥深い。
まさに、何もない中の雄大な自然の力がみなぎっている。
松林も、岩も、何か歴史や時間の流れを感じさせてくれる。
歩いて行くと、本当にほんの少しの時間だが、刻々と景色が変わってくる。
私は、こういう場所が本当に好きである。
海の音、風の匂い、冬の寒さ。
すべてがそろってこそ、ここに来ている感覚が面白い。
岩手の三陸海岸もあるが、ここの方が自然がきつい。
10分程歩いて行くと、終わってしまうのも、ここの特徴だろうか。
今の私には、とても辛い場所でもある。
清張の書くところは、自殺の名所にもなっているし、瞬間だが私にとって考えさせられる部分もある。
ヤセの断崖もそうだが、この辺りは、人を引き込んでしまう自然の強さがある。
最後に松本清張の詠んだ句碑があった。
読んでみると、まことに彼の心情がわかる。
以前、私は亀嵩にもいたが、偶然にもここで松本清張と再会してしまった。
おかげさまで、自然も時代も感じさせてくれた。
今の私は、ハラ軍曹のような気もするので、戦場のメリークリスマスを思い出しました。
生きる可能性と死ぬ可能性は、人生には一度のことしかないと、教えてきました。
常に、諸行無常であることを、思い起こすしか今の私には手だてがありません。
諸行無常ー諸行無常(しょぎょうむじょう、sabbe-saMkhaaraa-aniccaa, सब्बे संखारा अफिच्चा)とは、仏教用語で、この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。この場合、諸行とは一切のつくられたもの、有為法をいう。三法印、四法印のひとつ。
涅槃経に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」とあり、これを諸行無常偈と呼ぶ。釈迦が前世における雪山童子であった時、この中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てしなり。これより雪山偈とも言われる。
「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。
「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。後半偈は還滅門。
生滅の法は苦であるとされているが、生滅するから苦なのではない。生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観るから苦が生じるのである。この点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場である。
なお涅槃経では、この諸行無常の理念をベースとしつつ、この世にあって、仏こそが常住不変であり、涅槃の世界こそ「常楽我浄」であると説いている。
しばしば空海に帰せられてきた『いろは歌』は、この偈を詠んだものであると言われている
ウィキペディアより
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