半陶 輪島焼 能登ノ國で 土に還る土を探し求める日々

土曜日, 9月 06, 2008

稲刈れる稲と稲刈られぬ稲





現在、能登は収穫の時期です。
どこもここもあちらこちら稲刈りをしています。
雨が降っては、再び刈れないので仕事も休みを取って、頑張っています。
しかし、田圃には若人の声や姿は見えないのも、能登にある悲しい現実です。
さて、お米のまつもとさんの田圃はって言うと・・・
御覧の通り、稲刈れない稲なのです。
育っていないのでもなく、育っているのでもあり、現実は成長途中であります。
このように見てみると、無肥料、無農薬で育てるというのは、人間で言う生き方と似ていると、ずっと思ってきました。
肥料を与えたり、農薬をかけたりすることは、人間で言う過保護か手をかけるということ他ならないのだとも、思っている。
稲にたくさん実らせるのではなく、稲を育てた結果実っているのではないか?
それは、まだ3年しか見てない私には、見ているしかない。
例え多少なりとも、お手伝いしていても、それは変わらない。
そんな簡単なことでもなく、歴史上昔の稲を育てるのに近いとは思うが、世の中にそんな人はさて少ないし、見つけることは難しいだろう。
何れにしても稲だけでもなく、何でもがそうであるが、私の陶芸や作品と同じように「観えない」努力が、たくさんあって、そのひとつひとつに息吹が吹き込まれ、しっかりとしたひとつの葦となっていくのだと・・・
パスカルの「人間は考える葦である」と言うが、まさにお米のまつもとさんの稲はその宇宙的何かに似ている。
まさに、「哲学の稲」つまり「考える稲」と私は思っている。
そう、お米のまつもとさんの農業は、鍛錬農業哲学というものだと思っている。
でも、この近くで工事をしているおじさんたちは、雑草がこれだけ生えている田圃は、見たまま田圃でなはなくお休みの田圃と持っているに違いない。
写真の通り見たままが、真実である。

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