秋に向かって、止む事のないキリコです。
なにしろ、能登半島を走っていれば、どこかで見かけるし、同じように半島人があちらこちらと準備しています。
楽しそうでもあるが、何か体からパワーがにじみ出ている。
不思議と変化は、内容にも思えるが、地域で人が沢山亡くなったり、不幸が多い時はキリコを出さなかったり、心情的な温情がある。
日本人には、忘れられた基本的な心遣いというか、気の優しさはあまり見たことがない。
私の友人がたびたび来るが、どうしてもキリコって聞くと、「画家だよね?」なんて、フレーズを返してきます。
何べん話しても理解まで、相当の時間が懸かります。
私も、藤平朝雄さんに話を聞きましたが、語りが熱っぽくてやっぱり大変エネルギーを使いました。
一応、抜粋ではありますが、説明を付記しておきます。
キリコにも秋の匂いが感じられます。
能登で本格的なキリコ祭りが始まったのか、夏や秋の祭礼に使われるようになったのはいつごろから なのかは不明です。神社関係の記録ではキリコについてほとんど記載されていません。おそらくキリコはあくまでも氏子衆が神輿のお供をし、奉仕して担ぎ出す性質のものであり、主体は町民側にあったため文字としての記録が少なかったと思われます。最初にキリコが登場するのは正保3年(1647年)輪島・住吉神社の祭礼定書には神輿のお供をするキリコの事や他地域から祭り見物をする人たちで賑わう様子が書かれています。ただし、この頃は現在のキリコの原型と言われる「笹キリコ」をさしているようです。
笹キリコは4~5メートルほどの笹竹の上部に、高さ45センチ、幅30センチ、厚さ15センチの角型の小さな行灯(角型灯籠)をつけたもので、各自が一人で持ち歩きます。(現在も輪島大祭で、子供たち が持ち歩くキリコとして残っています)やがてこの笹キリコを大きくし、数名で担ぐレンガク(田楽がなまったものか?)と呼ばれる大きな直方体のキリコが登場します。(今も富来町の八朔祭りや酒見祭りで今も見られます)和紙には青龍・白虎・朱雀・玄武などの文字が描かれただけのシンプルなもので、装飾はありません。文化5年(1808年)の町方規定の中で現在のキリコと考えられる記録が見られます。ちょうどこの頃は北前船が活躍し、港町であった輪島やその周辺は経済的基盤が強固になった時期でもあり、能登キリコも巨大化、装飾による風流化が加速したのではないかと思われます。文化8年(1811年)の内浦では狂歌と鳥羽絵が描かれた、高さ11メートルものキリコが太鼓・笛・鉦(かね)の囃子で練り歩き、老若男女の歓心を得たようです。
大きさや豪華さを各地で競い合ったキリコも、電気の普及による電線の影響で明治末期をピークに、徐々に小型化され、現在の大きさに至っています。
能登キリコ祭り
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