焼物の中で一番肝心なのが、造る事より焼く事である。
いくら作れても焼けなければどうにもならない。
それぞれの土の焼成温度によっても違うのだが、耐火度というものが非常に大事である。
陶土にも、鉄分も多く含まれていることや、鉱物などの含有率、可塑性などなどとても簡単であり、かついい加減である。
何がいい加減かというと、陶土はそれぞれの形を持っているから、きちんとある程度焼けることが出来れば、千差万別に才能を発揮する。
これは、最大限に焼けるところと最小限に焼けるところが面白い。
焼くという事は、本当に人間を育てるというか育っていく過程に似ている。
ましてや窯焚き最終段階においては、本当に集中力と精神力で乗り切らないと難しい。
なにしろ、中の作品が光具合と窯の嘶きを聞き、煙など総合的に判断し、感覚の赴くままにタイミングを見計らっていく事が、重要である。
韓国に行ったときに、幾度と無く大変だったのが「固定概念」である。
こうしたいと思っても、「いや教科書には・・・」なんて言われたり、ある方法をすると「それは、間違いじゃないか・・・」などど、よく言われたものだ。
だがしかし、窯出しを迎えると、一様にして「いい焼けですね」となる。
やっぱり、方法論や勉強家達にとって、私の方法は異端に感じられた事は言うまでも無い。
まあ、そのナントカ論をやる訳ではないが、やる事によって一つの方法論は出来上がるのかもしれない。
今、私の窯場にある能登の陶土は、その焼ける事を待っているに違いない。
0 件のコメント:
コメントを投稿