半陶 輪島焼 能登ノ國で 土に還る土を探し求める日々

水曜日, 3月 21, 2007

珠洲焼 河ヶ谷窯跡(白丸近辺)



朝、今日は河ヶ谷窯跡に再び研究に行くことにした。日差しの強い中車を一路珠洲市へと向かった。千枚田を通り過ぎるころ、海はたおやかな風合いを見せていた。半島をぐるっと回って行った。禄剛崎を眺めながら、外浦から松浪方面へと足を向けた。珠洲焼の歴史の中、焼締めとしての造形力や焼成方法など様々に研究してきたが、さすがにこの街にはいろんな素晴らしい原石がある。それは、本当に夢見てきた韓国のオンギ技術との結びつきが、見えてきたので、やはり今は次々と発見し、収集し、根拠と事実を重ねていく作業をしている。西方寺の窯跡などは全国的に珍しいものである。しかし、どれだけの人が本当に関心を持っているかは、不明である。そうしていくうちに、秋吉を過ぎ、現地へと到着した。私は、カメラを向け傾斜角度、方角、情景をすぐさまファインダーへと収めた。こういう土地での窯の築き方は非常に珍しい。通常なら、河と直角に向かってあるものだが、ここは平行している。ましてや多少なりとも、傾斜の角度もきつい方がいいのだがどうも違う。なんとも、これは何かの背景か、陶工自身が一風変わっていたのかもしれない。そんなところで歩いていると、陶片が落ちていた。拾って見ると趣のある初々しい造形だった。これは、余程陶工が純粋で作ることだけを考えていたように思える、雰囲気で、まさに初期に近い段階のようなものであった。しかし、山間は陶土が沢山出ていたようなものではなかった。それから、焼く回数も極端に少なかったようで、すぐに転々と窯を移動して行ったような、窯跡でした。珠洲焼の美しさでもある純朴なところは、ここにやはりあった。歴史観から考えると次期もそうだが、恐らく仏教の影響があったと考えられる。それこそが、ダライ・ラマの言う転生の部分ではないかと、思う。このことも、いづれか書くことにいたします。でも、今日は河ヶ谷窯跡で本当にいい収穫が取れた。今後発掘研究がもっと行われて珠洲焼の歴史がより深く広い見聞へとなるように願って、輪島へと帰路に着きました。今日はその中でも、2枚の写真をココに掲載しておこうと思います。
written by 東龍

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