写真家の中村昭夫氏死去 地元、各界から悼む声 在りし日の中村昭夫さん=2006年5月、倉敷市の自宅 半世紀にわたり、郷土の風景を見つめ続けた写真家中村昭夫さんが8日、亡くなった。生まれ育った倉敷の町並みを愛し、県内各地にも足を運び伝統文化、歴史をフィルムに焼き付けた。突然の訃報(ふほう)に地元をはじめ各界から悼む声が相次いだ。 戦後、戦災に遭わなかった倉敷のスナップを撮るようになり、故緑川洋一さんが主宰した山陽カメラクラブに所属。同クラブで交流、共に県展審査員を務めた写真家花田冨士雄さん(91)=浅口市金光町=は「被写体を美化して見たりせず、事実を事実として記録するという志を貫き通した」と評価する。 「備前焼を撮らせたら右に出る人はいなかった」。備前焼の人間国宝(重要無形文化財保持者)伊勢崎淳さん(71)=備前市伊部=がそう惜しむように、その目は、備前焼の千年近い伝統にも向けられた。同い年で人間国宝の故藤原雄氏とは特に仲が良く「若い時は陶芸家、写真家として夢を語り合ったようだ。まるで身内を1人亡くした気がする」と雄氏の長男和さん(49)=同市穂浪。 古代吉備の古墳など文化財の分野では昨年5月、倉敷市真備町下二万(しもにま)の未盗掘古墳、勝負砂(しょうぶざこ)古墳が最後の大仕事。撮影を依頼した松木武彦岡山大准教授(47)は「素晴らしい出土品を生かして構図をつくる目はさすが。単なる記録でなく、生命感のある写真を撮っていただいた」と振り返る。 古里を愛した中村さんは、倉敷市伝統的建造物群等保存審議会長を務めるなど伝統的景観の保全にも尽力。同市文化連盟の室山貴義会長(78)は「審議会では徹底的に議論し、町並みに手を加えることに『厳しすぎる』と言われることもあったが、美しい町並みを守らなければという信念で決して妥協しなかった」と顧みる。町並み保全の思いを引き継ぐNPO法人倉敷町家トラストの中村泰典代表理事(56)も「もっともっと豊富な経験を聞き、議論してみたかった」と悼む。 40年以上も文化財の撮影や倉敷の町並み保存に力を合わせた“盟友”が倉敷考古館の間壁忠彦学術顧問(75)。「思い出はとても挙げきれない。なかなか理解されない倉敷の町並み保存を、ともに一生懸命訴えた仲間を、こんなに早く失うとは」と絶句した。【詳しくは山陽新聞紙面をご覧ください。】 (2008年2月9日掲載)
山陽新聞より転載
中村昭夫先生が亡くなった。
私が弟子の当時よく親方の展覧会の写真やいろんな写真を撮りにきたとき、助手をさせて頂きました。
いつも、にこやかに笑ってあまり怒ることもなく、いい先生でした。
いつも奥様とご一緒にお越しに来られて仲良くしていたことを思い出します。
撮影来ている時に、親方は仕事場からお昼に降りるときに、撮影の部屋に来て「昭ちゃん先生、お昼だよ」と言って、一緒にお昼ご飯をお酒を飲みながら、食べたものです。
ちなみに、中村先生はお酒が弱かったので、親方が飲んでいました。
私は、自分の撮った写真を見せたときに、「まじめに勉強したら写真でも飯が食えるな。でも、焼物のほうがあんたには合ってるけどね」なんて、言って頂いてとても幸せな気分にして頂いたものです。
息子さんが就職のときもテレビ局だったので、確かドラマかなんかのスーパーに名前が出てるのを、喜んで教えてくれたり、人間中村先生としてお付き合いしました。
親方が調子が悪いときもいろいろと話をして、アドバイスしたりいい作家同士というか、友人の関係でした。
私も辞めてから、倉敷の鶴形の自宅権仕事場で話を聞いてもらい、帰り際に「この昔の写真集もって帰れよ。君の今後のためになるかもしれないから」と言って、持たせてくれました。
そんな中村先生は、写真家人間中村昭夫先生として、短い時間ではありましたがお付き合いさせていただきました。
そして時折、いろんな写真家の話をしたり、私の昔撮った写真を見ていただき、お世辞にも「写真の世界でもやっていけるよ。でも君には焼物があるから、頑張ってよ」なんて言われたこともありました。
私は、中村先生に独立していつか求龍堂から本を出すときに、写真のお願いをするはずでした。
今はその約束も出来なくなりました。
でも、この能登から出来た作品をあの世から撮ってもらいたい。
だからこそ、いい作品を造り頑張りたい。
中村先生、本当にご苦労さまでした。
あの世から私の作品を見てください。
必ず、造ります。
ありがとうございました
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