田舎にいると何かが変わる。でもこの空間にいる作家たちは、どうなのだろうか?
いつもそう思う。
長年、疎開のようなカタチで造り人たちがいる。
しかし、開口健ではないが、さまざまにそれっぽい人たちは、今でもいる。
安保闘争や高度経済成長で、生れた考えは、いつも消えない。
きっと、どんなことをしても難しいのかもしれない。
時間の中に解決を観ないと言ってもよいのではないか。
モノづくりが好きなこと、出来ることは、対局している。
たぶん、気が付いていても、なんとか時代が置かれるままに活動し、経済活動もできたのではないだろうか。
しかし、これだけ閉局してくると、どうにも止まらなくなる。
そう、簡単に名をとり、時代に乗っかってきたからこそ、この時と言う時に何も出来なくなるのである。本当にモノ作りが好きであるならば、日々が破たんしても造りのだ。
それは、明治時代も江戸も平安など、本当にそうして来た。
浮世絵の名士なんかもそうである。
どうにもならないことが待っているのかもしれない。
造り手の破たんとでもいおうか。
血や肉を切ってでも、造りたいと言う気持ちがあるからこそ、ここまで生きてきたのだ。
だから、生み出るものに対する心の置き場は、誠に感無量です。
酒を入れ、澄んで見える景色も其れをまさぐる境地も、伝えようのない造り手の本心であり、今までもそうだった。
窯を焚き終え、窯の熱気のこもるそばで、どうにもならないと言う行く末を案じていても、満足な気持ちで、酒を酌み交わしたときは、まさに言葉では語れない。
絶望の中に、幸せがあるのだろうか?
しかし、それほど経験のない地獄の場面は、数少ないが味わってきた。
酒と言うより生の揺らぎに思えた。
寂しいが、それが事実である。
でも、その逆境こそが造りモノたちのエナジーになり、情熱という熱い血が騒ぎ出すのだ。
まことしやかに語っているのでもなく、あったことをそのまま言っているだけでもある。
能登半島に来てから、いろんなことがあった。
それでも、前向きに生きてきた。
どんなことがあっても這い上がってきた。
でも、前向きにひたすら歩いてきた。
この自然や秘境が私に元気づけ勇気づけてくれた。
そろそろ歩きたいように歩けるだろうか。
そう思いながら、日々歩き続けている。
一体どこへ行こうかと言おうか。
観えない目標を抱えたまま、お釈迦様の手のひらで、私は今も遊び続けている。
時はカタチなく溶け始め、カタチのない心というモノクロームになる。
観えないから厭きないのだ。
わからないから面白くて。
出来ないから造りたい。
ただそのことが、なぜか美しいというのではないだろか…
酒を飲み始めた時の形相のように、ほろっと思うのだ。
木の机に体を預け、居眠りしている。
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