半陶 輪島焼 能登ノ國で 土に還る土を探し求める日々

金曜日, 2月 19, 2010

工芸文化と現代社会の敬神

田舎にいると何かが変わる。でもこの空間にいる作家たちは、どうなのだろうか?

いつもそう思う。

長年、疎開のようなカタチで造り人たちがいる。

しかし、開口健ではないが、さまざまにそれっぽい人たちは、今でもいる。

安保闘争や高度経済成長で、生れた考えは、いつも消えない。

きっと、どんなことをしても難しいのかもしれない。

時間の中に解決を観ないと言ってもよいのではないか。

モノづくりが好きなこと、出来ることは、対局している。

たぶん、気が付いていても、なんとか時代が置かれるままに活動し、経済活動もできたのではないだろうか。

しかし、これだけ閉局してくると、どうにも止まらなくなる。

そう、簡単に名をとり、時代に乗っかってきたからこそ、この時と言う時に何も出来なくなるのである。本当にモノ作りが好きであるならば、日々が破たんしても造りのだ。

それは、明治時代も江戸も平安など、本当にそうして来た。

浮世絵の名士なんかもそうである。

どうにもならないことが待っているのかもしれない。

造り手の破たんとでもいおうか。

血や肉を切ってでも、造りたいと言う気持ちがあるからこそ、ここまで生きてきたのだ。

だから、生み出るものに対する心の置き場は、誠に感無量です。

酒を入れ、澄んで見える景色も其れをまさぐる境地も、伝えようのない造り手の本心であり、今までもそうだった。

窯を焚き終え、窯の熱気のこもるそばで、どうにもならないと言う行く末を案じていても、満足な気持ちで、酒を酌み交わしたときは、まさに言葉では語れない。

絶望の中に、幸せがあるのだろうか?

しかし、それほど経験のない地獄の場面は、数少ないが味わってきた。

酒と言うより生の揺らぎに思えた。

寂しいが、それが事実である。

でも、その逆境こそが造りモノたちのエナジーになり、情熱という熱い血が騒ぎ出すのだ。

まことしやかに語っているのでもなく、あったことをそのまま言っているだけでもある。

能登半島に来てから、いろんなことがあった。

それでも、前向きに生きてきた。

どんなことがあっても這い上がってきた。

でも、前向きにひたすら歩いてきた。

この自然や秘境が私に元気づけ勇気づけてくれた。

そろそろ歩きたいように歩けるだろうか。

そう思いながら、日々歩き続けている。

一体どこへ行こうかと言おうか。

観えない目標を抱えたまま、お釈迦様の手のひらで、私は今も遊び続けている。

時はカタチなく溶け始め、カタチのない心というモノクロームになる。

観えないから厭きないのだ。

わからないから面白くて。

出来ないから造りたい。

ただそのことが、なぜか美しいというのではないだろか…

酒を飲み始めた時の形相のように、ほろっと思うのだ。

木の机に体を預け、居眠りしている。

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