毎日がいろんなことがある。
私の携帯電話にかかってくる電話が多い。
こうして、たくさんのブランドショップが立ち並ぶ南青山も、時代の平射には勝てないのが、よくわかる。
どんなに威張っても、どんなにプライド持っていても、どうにもならないのである。
たくさん入っているお店は、当然安い飲食店。
さびしいが、モノを見るより食べる方が優先である。
歪曲してみても、全国変わることはない。
能登半島とて、それは同じである。
でも、そればっかり言っていても、駄目なのはわかっているが、誰も前に進もうともはしないのだ。
伝統工芸という洒落たネーミングも、時代によってとらえることも難しくなった。
それも、今となっては生きる続ける辞めるのが代後となっている。
どうすればいいのか。
現場ずくめが悩み続けても、結論は出ない。
しかし、刻々と時は過ぎていく。
不思議の国のアリスに出てくるウサギの懐中時計が、まばゆくほしくなるのは、なぜだろうか?
今の時代は、事実を並走しながら、個々が勝手な価値判断で決める背景を持ち、誹謗や過去列石を立て並べ、仏教心のない正義にあふれている。
おかしいと思いながらも、自らを守るという情けない疲弊した態度で、接することを、誰もがしているような時代になった。
手を差し伸べて、否定し守り、道を歩かせてあげるような人は、なぜ居なくなったのだろうか?
人間の中にある良心や呵責は、どこへ行ったのだろうか?
モノづくりの人間こそ、人の心や抱え抱擁することが必要ではないのだろうか?
モノ、カネ。
立場、隔離。
何か温かいモノづくりなる人たちは、そんなにいないのだろうか?
しかし、其れにかかわり支える人たちが、闊達な意見や論議がなくてはないと思う。
造る人だけではないのだ。
そうして考えると環境が、一番。
でも、選択しているのは自分なのだから。
結局は、運命か?
いや、必ず違うと思える人がいるからこそ、変わる時代。
革新的な変革を遂げる時代になったと、思う。
きっと、今こうして見える結果に満足はしないだろう。
満ちればすべてが終わるから。
美味しい実の熟した果実ではなく、自ら育て熟すまで待ち、楽しむ日本人が本来の文化を
啓蒙していたのではないだろうか?
きっと、それが変わる時代が来ている。
足音ではない。
風である。
松本清張の「点と線」は、前世紀に終わっている。
波と風の時代に変わっていることに、気がつかなければならない。
アメリカンズカップの船のように、向かい風で進み、追い風で進むという素晴らしい感覚こそが、誰にでもあるはずなのだが…
己が心を磨く人たちが、素晴らしく心地よいと思うのは、私だけだろうか?
0 件のコメント:
コメントを投稿