半陶 輪島焼 能登ノ國で 土に還る土を探し求める日々

木曜日, 2月 18, 2010

モノに見える物作り  




毎日がいろんなことがある。

私の携帯電話にかかってくる電話が多い。

こうして、たくさんのブランドショップが立ち並ぶ南青山も、時代の平射には勝てないのが、よくわかる。

どんなに威張っても、どんなにプライド持っていても、どうにもならないのである。

たくさん入っているお店は、当然安い飲食店。

さびしいが、モノを見るより食べる方が優先である。

歪曲してみても、全国変わることはない。

能登半島とて、それは同じである。

でも、そればっかり言っていても、駄目なのはわかっているが、誰も前に進もうともはしないのだ。

伝統工芸という洒落たネーミングも、時代によってとらえることも難しくなった。

それも、今となっては生きる続ける辞めるのが代後となっている。

どうすればいいのか。

現場ずくめが悩み続けても、結論は出ない。

しかし、刻々と時は過ぎていく。

不思議の国のアリスに出てくるウサギの懐中時計が、まばゆくほしくなるのは、なぜだろうか?

今の時代は、事実を並走しながら、個々が勝手な価値判断で決める背景を持ち、誹謗や過去列石を立て並べ、仏教心のない正義にあふれている。

おかしいと思いながらも、自らを守るという情けない疲弊した態度で、接することを、誰もがしているような時代になった。

手を差し伸べて、否定し守り、道を歩かせてあげるような人は、なぜ居なくなったのだろうか?

人間の中にある良心や呵責は、どこへ行ったのだろうか?

モノづくりの人間こそ、人の心や抱え抱擁することが必要ではないのだろうか?

モノ、カネ。

立場、隔離。

何か温かいモノづくりなる人たちは、そんなにいないのだろうか?

しかし、其れにかかわり支える人たちが、闊達な意見や論議がなくてはないと思う。

造る人だけではないのだ。

そうして考えると環境が、一番。

でも、選択しているのは自分なのだから。

結局は、運命か?

いや、必ず違うと思える人がいるからこそ、変わる時代。

革新的な変革を遂げる時代になったと、思う。

きっと、今こうして見える結果に満足はしないだろう。

満ちればすべてが終わるから。

美味しい実の熟した果実ではなく、自ら育て熟すまで待ち、楽しむ日本人が本来の文化を

啓蒙していたのではないだろうか?

きっと、それが変わる時代が来ている。

足音ではない。

風である。

松本清張の「点と線」は、前世紀に終わっている。

波と風の時代に変わっていることに、気がつかなければならない。

アメリカンズカップの船のように、向かい風で進み、追い風で進むという素晴らしい感覚こそが、誰にでもあるはずなのだが…

己が心を磨く人たちが、素晴らしく心地よいと思うのは、私だけだろうか?


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